相反世情

 

 

初めての記事で、SNSは得意でないと書きました

 

 

 

苦手意識を持つ理由は様々で

 

 

まず、マメに何かすることが億劫なタチで、それはメールなどにも共通します

 

あまり大声で言えることではありませんね

 

 

チェックしたり、心のどこかで気に留める

 

内側の動きに対して、時間やその動作を勿体無く感じるのもそうです

 

 

大部分を占めるのは、写真を執拗に撮りたくないこと

 

 

 

 

学生時代に、2年半ほど写真屋さんでバイトをしていたことがあります

 

当時はレトロなカメラやフイルムに首ったけで、

 

ピンホール、ハーフ、ポラロイド...

 

古いカメラを買い漁っては試して、を繰り返していました

 

 

 

その発端は、父からOLYMPUSの初代OM-1を譲ってもらったことに由来します

 

 

当時スマートフォンは世に浸透しておらず

 

写真といえば、誰もがデジカメやガラケーとされる携帯電話で撮影していて

 

私もそうでした

 

 

 

 

 

ネガは、まず現像してみなくては写りがわかりません

 

それなので、慎重に構図や明るさを考えてはいじって、やっとシャッターを切ります

 

 

 

芸術活動でも写真を多用していた私は、

 

何十本というフイルムを一度に使用したこともあり

 

もし全て現像してたとしたら800枚ほどでしょうか

 

とんでもない金額になってしまうので、現像した後ネガを見て抜粋していました

 

 

狙ってもできないことが起こり、偶然性がとても美しく

 

温度を帯びているのはネガの醍醐味です

 

 

 

 

写真を撮るという行為は、当然その分の時間を割いているわけです

 

 

この地球上に生きる幾らかの大勢の人々が

 

カメラや携帯を手に、シャッターを切る

 

仕事やプライベート、事情はそれぞれ

 

 

 

一枚で終わることはほぼないでしょう

 

この角度、構図で、と一度に何枚もというのが当たり前ではないでしょうか

 

あるルールのようにも感じます

 

 

 

10年ほど前、一年の内どの日だったか、

 

「写真を撮らない日」という広告を見かけました

 

 

その時、なんだかクリーンすぎて面白みを感じませんでしたが

 

今それを目にしたらどうでしょうか

 

どれほどの人が、立ち止まるのでしょうか

 

 

記録を残すことは後の財産

 

 

 

もっともっと、目の前の事実や気付きを記憶できるのではないかと疑念を抱くのです

 

 

形として残り、振り返る要素になり得る、記録

 

 

記憶は、各々の思い入れがあり、情報を得るためのヒントがなくても

 

頭や心に刻まれているの傷もしくは傷跡

 

 

着目している方はどれくらいいるのでしょう

 

 

私は、常時何事に於いても、事実に相反する背後を意識が追ってしまいます

 

 

 

最も遠いところに、最も確かなヒントは潜んでいるからです

 

 

 

 

 

 

 

 

  [  写真  ]

 

 

  2018年秋にオーストラリアへ行った際

 

  旅の後半はパースを拠点に、島や近隣の街を周りました

 

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